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思想の放流

差別と区別/ジェンダーの話

私は、ストレート──いわゆるヘテロではない。しかしレズ、ゲイ、バイ、トランスなどのどれかというわけでもない。あえて性自認を決定していないのだ。ジェンダー界隈ではこれを、「Q」「クエスチョニング」というらしい。

世間的にはおそらく私はヘテロなのだろう。股間には女性器がついており、今まで好きになった人も男性ばかりだ。だが、これからジェンダー問題とおそらく一生付き合っていくにおいて、物事を公平に見たいと思ったのだ。

ヘテロの女性」である限り、どうしてもその視点に捕らわれてしまう。なので、(一応)自分を「クエスチョニング」にカテゴライズし、できる限りどこにも当てはまらない立場でいたいと思ったのだ。(本当は、「Q」にすら入りたくない。しかしQの定義にある「それ以外」からはどうしても逃れられない。少し残念である)

こんなことを書いたら、当事者の方々から怒られるかもしれない。申し訳ない。決してふざけたり、馬鹿にしているわけではないのだ。

もしかしたら、これから女性を好きになることがあるかもしれない。今まで恋愛感情だと思っていたものがそうではなくて、無性愛者だとわかる日が来るかもしれない。だが今はどうか、クエスチョニングを名乗らせてほしい。広大なウェブの片隅にある匿名個人ブログ、ここで、この記事が公開されている間だけでいいのだ。

長くなったが、ここからが本題である。どうかハードルを上げずに読んでいただきたい。

世間では今、ジェンダー問題について多くの議論がされている。社会的性差別についてが主らしい。しかし、差別を無くそうといったって、差別と区別の違いを完璧に定義できている人が、果たして存在するのだろうか。

ネットの海を少し泳ぐと、このような表現を見つけた。

『「差別」は非合理的な差の認識
「区別」は合理的な差の認識』

一見納得がいくように思える。しかし、「非合理的」と「合理的」の違いは、どこにあるのだろうか。

あくまでも個人の意見なのだが、私は、この二つは時と場合、視点によって常に変わるものだと思う。差別と区別が両端にあるグラデーションのようなもので、境界線なんて無いのだと。

差別を無くそうという運動は良いと思うが、差別と区別の区別(ややこしい)はつけられないのできりがないし、「どこまでの差別を無くす」と決められている人なんていないのではないか。

差別を無くそうという運動は、区別をも完全に撤廃するまで終わらない。私はそう考える。

しかし、ジェンダー問題に限らず、「どこまでが差別でどこまでが区別か」という問題の答えは、永遠に出ないのだろう。

なんだか何が言いたいのかよくわからなくなってしまった。

大分解りにくい文章になってしまった自覚はある。もしかしたら追記するかもしれない。

性別などについてはまだまだ書きたいことがたくさんあるので、また何か記事を書くかもしれない。

しかし、今のところはわからない。

とりあえず、「クエスチョニング」というカテゴリーがあることだけでも知ってもらえると有り難い。